ブログ始めました。ご挨拶

2020年6月21日日曜日

自己紹介

t f B! P L



ブログに訪問いただきありがとうございます!
理学療法士のじんたといいます。

初めての投稿ということで自己紹介をしようと思います。



  資格・経歴


○理学療法士免許取得:2015

◎資格
・運動器認定理学療法士
・フォームソティックス・メディカル取扱認定者
NASYUインソール販売資格


◎所属
・日本理学療法士協会
・社団法人アスリートケア
・西野亮廣エンタメ研究所

◎業績
14回肩の運動器の研究会(2017)
「自動挙上が困難な腱板断裂症例に対する徒手抵抗訓練の即時効果」
△共同演者

15回肩の運動機能研究会(2018)
「自動挙上不能な腱板広範囲断裂肩における肩挙上位での筋活動」
△共同演者
「下降動作時に疼痛を訴える腱板断裂肩に対する徒手抵抗訓練の効果」
△共同演者

第16回肩の運動機能研究会(2019)
「自動挙上不能な腱板広範囲断裂肩の筋活動の経時変化と臨床成績」
△共同演者
「肩挙上位での壁面挙上訓練時の肩甲骨周囲筋活動:負荷量による差」
△共同演者

第60回近畿理学療法学術大会(2021年)
「僧帽筋下部に対する段階的トレーニングの検討」
○筆頭演者

第4回東支部 新人症例発表会 座長(2024年)

自己紹介

1992年生まれ。
大阪生まれ大阪育ち。

小さい頃から周りと比べていた


確か年中から小1ぐらいまでサッカーをしてたのですが、

どうしても周りと比べてしまい、

うまくならない自分に

小さいながらに劣等感を感じ、辞めました。


周りから

「下手やな」という視線を浴び、

足引っ張ってるなとも感じていました。



なによりも

周りの目が気になって続けれなくなりました。



TSK(楽しいサッカークラブ)

というサッカーチームだったのに(笑)



その後は一旦

スポーツから離れました。


その頃から周りの目を気にするように

なりました。


“”周りの目を気にする“”

今思うとこれが厄介でした


特に小学生の頃は

学校の先生から、気に入られるほど

優等生を演じていましたし、

高校まで引きずったのですが、

女子と話してる姿を見られるのが嫌だったり

要はからかわれるのがめちゃくちゃ嫌やったんです。


https://twitter.com/k_jinta/status/1731763908011303226?s=12&t=zYWj0V4sOl0jhIu77Xq7dg




このポストにも書いていますが

この頃にこの性格は

形成された気がします。



小5の時に

友達から「野球やらん?」って誘ってもらい

野球を始めました。

※アフレコですが

その友達は人数を集めたかったみたいで

入ってくれれば誰でもよかったみたいです笑



元々、野球は興味があったので、

即決でした。



よかった点は

先輩がめちゃくちゃ多くない、

同い年も多くない(3人)

年下の子ばかり

いわゆる弱小チームだったことです。



周りの目を気にせず、

好きな野球ができたことが

自分にとってかなりプラスになりました。



ただ、試合をすると

ほとんど負けていたので、

あまり試合が好きではなかったです。



そんなことを言いながら、

小5から始めた野球は

高3までやらせてもらいました。



親には感謝ですね。



中学時代…



ほとんど記憶がないです。笑


中学でも野球をやって、

チャリ通して、怒られて、

ボウリングしまくって、

練習しまくって

体育でリフティング50回できて

成績5をもらって、

ていう人生でした。



馴染めなかった高校時代



今だから話せますが

実は高校受験に失敗しています。


私立高校はなんとか受かっていたので

高校に行けないというわけでは

なかったですが、

公立高校の入試で落ちました。


中学では成績はまあまあで

内申点が結構高かったので

余裕かなと思っていました。


当日の英語が全くできなくて

見事に撃沈しました。

特にリスニング…


まさか、

私立高校に行くなんて

思ってもなかったので

テキトーに決めていました。


今思うと、

野球部のキャプテンをしたり、

指定校推薦で大学に行けたり、

私立高校に行ったことが

結果的によかったです。


これだけなら

順風満帆に見えるんですが、

全くそんなことはなかったです。


その私立高校は

幼稚園から高校まであって

高校の1学年の約8割が内部進学者だったんです。

(中学→高校)


なので、

入学初日からみんな仲良く話してるんですよ。

「え?ちょっと待って…。終わった…」

心の中で白旗をあげました。

高校生活終わったと思いました。

人見知りの僕からしたら地獄みたいな状況。



入学して2週間ぐらいは

誰とも話せず、

昼飯も机に向かって、一人で食べていました。



ある時

日直の子が黒板を期し忘れてて、

その子に

「日直やんな?黒板消し忘れてるで」

と一言、声をかけれたことで

地獄みたいな状況は打破できました。



そこから野球部に入ってる子を

紹介してもらって、

野球部の見学→入部とうまくことが運びました



あの時

声をかけれていなかったらと

思うと震えます…



もともと、

友達が多い方ではないんですが、

高校時代の友達で

今でも連絡を取るぐらい仲がいい子ほぼいません。



この事実がいろいろ物語ってますね。



PTを目指すきっかけ


自分が投球障害になったことでした。



病院にリハビリに通い、

そこで理学療法士という職業を知りました。



僕は幸い、靭帯損傷や、筋の損傷とかでは

ありませんでした。



高校野球で言うと、

1年生の4月に入部して、

早ければ3年生の7月で引退なので

実質、高校野球ができるのは

2年と少ししかありません。



その短い期間に怪我をして

好きな野球ができない

もどかしさ、つらさ、は経験した人しか

わかりません。



他のスポーツでも同じですが、

そういう人に寄り添って、

「自分と同じ思いをする人を少なくしたい、力になりたい」

そう思いました。



実際、現場・臨床では

小学生、中学生の子も多く、

驚いたと同時に、怪我する前の

予防が必要だなと改めて感じました。



ポンコツな大学時代


テストがある度に

再試験になる科目がいくつもありました。



再試験になったらヤバいと噂される

科目に関しては押さえていたので、

再試験に不合格になることはなかったです(笑)



そのポンコツ具合は最後の最後まで健在で

卒業試験まで再試になる始末…

当時は「終わったな」という気持ちが強かったのですが、

仲のいい友達が

一緒に勉強してくれて、なんとか再試に合格。



ただ、今となっては

そこで再試じゃなかったら

本番で落ちたいたかもしれません。



卒業試験の結果発表から

1週間後が再試やったので

その1週間は死ぬほど勉強しました。

多分、人生で一番勉強しましたね(笑)



国家試験もギリギリ(171点)で合格して

現在に至ります。



大学時代は人見知りの性格を少しでも直そうと思い、

居酒屋のホールスタッフとしてアルバイトをしました。

4年働きましたが、人見知りが解消されたかは不明です笑



実習では自分の知識のなさを痛感し、患者様に迷惑をかけてばかりでした。

「大変なのはお前じゃない、患者さんだ!」と

実習先のスタッフ、患者さんがいる中で怒鳴られたことは

今でも忘れないです。

もう一生実習は嫌だと思いました(笑)



その実習は見事に途中で中止になりました。



元々、厳しいと言われていた実習先で

僕なら大丈夫だろうと

満を持して学校の先生は送り出してくれたのですが

その期待に応えることができず撃沈しました。



その後は、

学校の系列の病院で追加実習という形を

とってもらい、ことなきを得ました。



今だからこうして話せますが、

当時はマジで死んでました。



実習が終わり、

家に帰って、言われた課題をするのですが、

全然進まないんですよね。



気付いたら、鳥の鳴き声がして、

「朝か…」「行きたくないなぁ…」と憂鬱になる。

それの繰り返しでした。



小中高大と

一回も学校に行きたくないと思うことは

なかったし、ほぼ皆勤賞だった僕が

これを思うってことは相当メンタルがやられていたんだなと

今になって思います。



就職に関しては

大学のゼミの先生から

「3-4年はしんどいと思うけど、ここの病院なら成長できると思うよ」

と助言をもらい、前職場に就職しました。



実は高校三年生で野球を引退してから

某アイドルグループにハマり

大学卒業までヲタクをしていました。

ちょうど

「ポニーテールとシュシュ」

「ヘビーローテーション」

あたりからヲタ活が始まりました。



結構ガチで(笑)



大学1年からは某アイドルグループの

妹グループが難波にできたので、

そのグループのヲタクをしていました。


劇場に公演を見に行ったり

握手会のために東京に行ったりしましたね。


推しの子には顔と名前を

覚えてもらっていました。



当時はかなり非難されましたし、

変な目で見られることが多かったです。



なんせ

世間のヲタクのイメージが

「電車男」=「キモい」だったからです。

メガネ、ネルシャツ、シャツイン、バンダナ…



非難されながらも

ヲタクを続けてよかったことがあります。



人脈ができたことです。



推しの子が同じ人たちの繋がりができるんですね。

推しの子が卒業して10年ぐらい経ちますが、

忘年会や、新年会をしたりしています。

職種も様々で

麻酔科医、コンビニ店長、大手メーカー社員、掃除会社重役など

こういう繋がりができたことは

僕の中で財産です。



いきなり挫折した新人時代

忘れもしないですが

最初に担当させてもらった患者さんが良くならなかったんです

ばりばり跛行が残ったまま退院しました。



僕が急性期〜回復期までガッツリ

担当したにも関わらず、

よくならなかった。



めちゃくちゃショックでした。

とともに、

「ヤバいな…」と焦りを感じました。



ぶっちゃけると、

Opeしてリハビリしたら

ある程度良くなるやろう

って甘く考えていました。



初めて担当した外来の方に

飛ばれたこともありました。

1回介入した次の外来から来なくなりました。



もうね、

悲しいというか、悔しいというか、

全てにおいて力不足が否めなかったです。



これらのことがあって、

知識、技術を早急につけないと

患者さんに迷惑をかけてしまうと

思ったので、狂ったように

毎週末、勉強会に参加するようになり

書籍の購入もかなりしました。



この頃に

わからないなりにも

勉強会とかに

数多く参加していて良かったなと

今になって思います。

勉強会で得た、知識やスキルは

今でも結構重宝しているからです。



当時は

意識高い系やなと

揶揄されることも多々ありましたが、

そんなの関係ねぇー!

先輩に肩を並べるんや。

って自分を鼓舞していました。




1年目の理学療法士だろうが、

10年目の理学療法士だろうが

患者さんからしたら同じ理学療法士だし、

同じ金額で請求されるわけです。



経験の差はどうしても埋められないけど

知識だけでも補充しないとと

患者さんに失礼だなという思いがありました。


朝は就業が9時でしたが、

7時45分には職場にいて、

朝から勉強してましたね。

子どもが生まれる、6年目あたりまで

続けていました。


仕事に関しては、要領が悪いタイプだったので、

基本的に新人の中で一番最後に

帰っていました。


一番最初に来て

一番最後に帰ってました。(笑)

今とは真逆です。


結婚して

子どもができるまで

続いていたように思います。



救いだったのは、

指導者に恵まれたことです。



雑務や業務は

新人同士で共有して、

わからんことだけ聞いてスタイルでしたが、

おすすめの勉強会や

技術に関して教えてもらいました。

というより、

真似しろって言われたので

ひたすら真似をしてました。



基本、自分で調べろスタイルでしたが、

僕にはそれが合っていました。



その方は

腱板断裂の保存やスポーツ疾患、

ACL術後の方ばかり見ているのに

僕が頸部骨折や転子部骨折の患者さんの

症例発表のレジュメを持っていくと、

ズバズバ指摘してくれ、めちゃくちゃ質問が飛んできました。



「普段見てないのになんでわかるんやろ、すごいな…」

こう思っていました。


一方で、

指導者に恵まれてない同期もいて、

「この差ってよくないな…」と

当時から思っていましたが、

学生や新人の指導者をするように

なってから余計にその思いが

強くなりました。



4年目ぐらいまでは

なかなかしんどいなと思うことも多く、

正直、外来の患者さんを見るのが苦に

感じることもありました。



臨床が楽しく感じ始めた5年目



なにか明確なきっかけとかが

あったわけではないですが、

5年目あたりから

臨床が楽しく感じ始めました。




後輩も増え、学生を担当し始めました。




この辺りから

知識や技術に関して

教えることが増えてきました。




アウトプットする量が

単純に増えていた気がします。




そのおかげもあって

頭の中が整理されたのと

経験がリンクしてきたタイミングだったのかなと

思います。




また、

今の僕の信念が

芽生え始めたのもこの頃ぐらいです。



9年目で新天地へ


約8年勤めた前職場を退職して

現在の職場に転職しました。



辞めた理由はいくつかありますが

一番は結婚して子どもが産まれ、

ライフスタイルが180度変わったからです。



スポーツ疾患やいろんな疾患が経験できる

と思い前職場に入職しました。

急性期、回復期専従、維持期、一般外来、スポーツ疾患と

ホントにいろいろ経験させてもらいました。



辞めるのはかなりエネルギーがいることで

正直、そのまま残る方が楽やなと

思っていましたし、

見たい疾患が見れる状況でしたが、

家族のことを考えると転職がベストでした。



現在の職場は

家から近く、子どもに何かあれば

すぐに迎えに行ける状況です。



僕の幸せ=家族の幸せ

と定義しているので、

それを基準に判断しました。



僕の信念



ここまでお読みいただき

本当にありがとうございます。


最後に僕の信念を書いて終わりたいと思います。



序盤でも書きましたが、

理学療法士としては

「自分と同じ思いをする人(怪我)を少なくしたい、力になりたい」


「担当した方を最短ルートで良くしたい」


「『僕が担当で良かった』と思ってもらう」


です。


患者さんのためにという思いが強いです。



さっきも少しお話ししましたが、

学生や新人セラピストを指導するようになり

指導者によって差があるなと感じるようになりました


純粋に

「なんで自分の持っているものを教えないんだろう」

と思いました。



僕は、

基本的に指導させてもらう新人の方には

僕の全て授けようと考えています。

いえば、僕の分身を作るイメージです。

もちろん無理にではないです。

その方が、必要であればって感じです。



いきなり全出しするのでなはく、

その子の成長や性格、悩んでいることなど

見極めながら、

必要な時に必要なものを渡しています。



なぜそこまでするのか。

理由は一つです。

「最速で成長して、臨床が楽しいと感じてほしい」

からです。


僕が臨床の楽しさを

わかったきたのは5年目でした。


少し時間がかかったかなと

思います。



ここまでくるのに

僕と一緒の苦労はしなくていい

と思っています



なるべくなら早く

楽しさをわかってほしい、

理学療法士って最高の仕事だなと感じてほしい、

どうせなら、

僕の苦労を知って

僕と違う苦労をした方が

明らかに良いです。



セラピスト人生の土台となる

1-5年目のうちにしっかり学んで

他のセラピストと差をつけてほしいです



特に僕の発信を追ってくれている方

コンテンツを買ってくれている方は

勉強に対して貪欲で

患者さんのためにという思いがあり、

熱意のある、素晴らしい方々です。

そういう方々の

成長を後押ししたいなと思っています。



そもそもセラピスト(理学療法士)の職を

選んでる時点で、最高なんですけどね。




少し熱くなりましたが、

僕という人間を

さらけ出しました。



ぜひ、

コメントやリプなどください。




















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理学療法士のじんたです。運動器疾患に対して実際の臨床で使える知識、経験を発信。認定理学療法士(運動器) 。大阪の病院に勤務。運動器を中心に診療。過去に多数の運動器疾患の患者様を担当。コンディショニング、むくみ改善、動きやすい身体作り、など、相談承ります!

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